池田小事件 被害者。 別紙 「附属池田小学校事件の概要」|国立大学法人 大阪教育大学

No.021 小学校に侵入し、刃物で教室を襲撃・宅間守

池田小事件 被害者

その原因のひとつとして、物心がつくかつかないうちから父親に叱責、殴打、ときに木刀も振り下ろされる環境で育ったといいます。 宅間守は安全地帯であるはずの家庭内において安住できず、それにより蓄積したストレスが、学校や小動物に向けられ、爆発したと言われています。 小・中学時代から強者に迎合し、自分より劣ると判断した同級生を「奴隷」と名指ししました。 宅間守のことを「宅間さま」とかしずかせ、「調子に乗るな」と因縁をつけて暴行。 女生徒が横切れば、唾を吐きかけました。 小学校6年の時に、地元ではハイレベルな中学校である大阪教育大学付属 池田中学校の受験を希望しましたが、宅間守の成績ではとても無理ということで受験させてもらえませんでした。 宅間守の心情として、「自分をもっと頭の良い人間として産んでくれなかった親が悪い。 」と親を恨むようになります。 宅間守は地元の中学校に進学し、その後は工業高校へ進みますが、学校で教師を殴り、40日くらいで退学となっています。 こういった素行などが附属池田小殺人事件を起こすきっかけになったというのが検察の見解です。 宅間守は「下関事件の模倣犯になりたかった」「命を持って償います」と初公判でのみ被害者遺族に対し反省・謝罪の弁を口にしていました。 このことに対し、大阪地方検察庁の検事が週刊新潮のインタビューに対して「この反省と謝罪の弁は本物だった」と証言をしています。 宅間守は公判後は「何も言えないよりは良かった。 本当ならば4人の遺族を名指しで批判するつもりだった」「刑事責任能力がそこまで認められたなら(控訴しても)仕方ない」と述べています。 2003年8月28日、大阪地方裁判所は宅間守に対して死刑判決を言い渡しました。 死刑判決を言い渡す場合には主文を最後に述べる慣例がありますが、今回はそれを破って主文を先に言い渡しました。 また、既に宅間守は開廷時に騒いだことで退廷命令を受け、拘置所職員によって連れ出されており、死刑判決を読み上げる裁判長の声を自ら聞くことはありませんでした。 また、この判決公判では傍聴希望者が多かったことから、特別措置として法廷にテレビカメラを設置し、別室に設けたテレビモニターで傍聴できました。 死刑確定から約1年後の2004年9月14日8時16分、宅間守は大阪拘置所で死刑を執行されました。 結果的には宅間守の望んだ通りの早期執行となりました。 死刑確定後に獄中結婚をした妻が死刑執行後に刑務官から伝えられた言葉は「ありがとう、と僕が言っていたと妻に伝えてください」とされています。 また、執行当日の朝食は取ることが許されませんでしたが、宅間守は執行直前に刑務官から受け取った煙草とリンゴジュースをゆっくり味わってから、拘置所の奥へ消えていったといいます。 最期まで遺族への謝罪はありませんでした。 享年40。 なお、葬儀はマスコミが押しかけることと、費用面など経済的事情もあり難航し、結局は信者ではなかった大阪市内のキリスト教関係の施設で行われたといいます。 この附属池田小殺人事件で被害にあった沢山の人たちは何を思ったのでしょうか。 今回の附属池田小殺人事件において、宅間守への批判はもちろんのこと、この殺人事件においては逃げた教師の行動や、附属池田小の防犯意識の低さに対しても非難が殺到しました。 殺人事件当時、附属池田小2年西組の女性教師(当時26歳)は児童たちを置いて逃げたとの見方があります。 たとえ通報のためとはいえ、目の前で襲われる被害者児童たちを置き去りに逃げたということが非難され、女性教師の名前はネット上でも簡単に調べられてしまうほどでした。 また、自分だけその場を離れたということだけでも十分批判の対象となりましたが、通報に事件発生から7分以上もかかったことも問題視されました。 学校から逃げた被害者児童の中に、近くのスーパーで助けを求めた児童がおり、そちらの通報の方が事件発生から5分と早かったのです。 そういったこともあり、女性教師は通報をするために教室を飛び出したのではなく、逃げただけではないのか、との関係者からの追求がありました。 様々な意見が飛び交いましたが、その真偽は定かではありません。 逃げた教師は事件後、附属池田小を退職しています。

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池田徳信の防犯カメラ映像や現在の顔画像は?目撃者の証言から人物像が引きこもりと判明!

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附属池田小・児童殺傷事件 附属池田小・児童殺傷事件 【事件概要】 2001年6月8日、大阪教育大学附属池田小学校に刃物を持った男(宅間守・当時37歳)が乱入。 児童8人が死亡、教師を含む15人が重軽傷を負った。 宅間守 【児童らの見た悪夢】 2001年6月8日午前10時、大阪教育大附属池田小学校は2時間目が終わり、休み時間に入る直前だった。 その頃、同校の前には1人の男がいた。 男は無施錠の自動車専用門から侵入、体育館の前を通って、途中児童達と花壇の方に向かっていた1人の教師とすれ違うが、教師は児童の父兄と思って不審に思わず会釈しただけで声はかけなかった。 南校舎1階には2年南、西、東の3クラス、同じく1年の3クラスが並ぶ。 このうち1年西組は体育の授業で体育館に行っており不在だった。 続いてテラスから隣りの西組に移り児童を襲い、今度は廊下に出てその隣りの東組に入り、ここで4人を襲った。 男は東組から外に出たところで、タックルしてきた教師(1年南組担任)の胸を刺して重傷を負わせ、その後も教師の「逃げろ!」という声に中庭の方へ逃げていく児童達を追いかけた。 「しんどい・・・・しんどい・・・」 その時、男はそう呟いていた。 学校の教職員たちは、いったい何人の児童が切りつけられ、どこに倒れているのかすぐには判らず、通報も遅れた。 この凶行はわずか10分ほどの出来事(後の学校側の調査では5分)である。 男は児童8人を殺害、他児童13人、教諭2人に重軽傷を負わせた。 (最初に入った2年南組で児童5人死亡。 その隣り2年西組で2人死亡、6人負傷。 2年東組で4人負傷。 取り押さえられた1年南組で1人死亡、3人負傷) 逮捕された男は池田市内の無職・宅間守(当時37歳)。 東門前に止められた車の中からは、アイスピック2本、錆びた包丁や鉈も見つかった。 逮捕直後、宅間は「阪急池田駅のバス停付近で、100人ぐらいメッタ切りにしてきた」「このところ、ずっと眠れなかった。 小学校には行っていない」などと、おかしな言動を繰り返していた。 自宅を調べたところ、精神安定剤など10数種類約200錠の薬が見つかった。 それでもあまりの凶悪重大事件であるため、翌日の朝刊では実名で報道された。 そして逮捕からしばらくした頃、「精神障害が重いように装った」と、罪を逃れるために症状を偽装したことを認めた。 【詐病、暴力、結婚】 宅間は1963年、池田市の西隣、伊丹市で生まれた。 父と母、上には7歳違いの兄が一人いる。 小6の時に大教大附属池田中学校の受験を希望するが、模擬試験の結果が悪く断念している。 家庭内暴力が始まったのは中学生の時からだった。 中学3年時、黒板に自分の経歴や「航空自衛隊に入ろう」と書き、軍歌を歌うなどしたが同級生は無視した。 また「俺はIQが高い」などと言っていたが、成績は中の下だった。 結局、地元中学から工業高校に進む。 野球部に所属するが、練習態度が悪いことなどから上級生からいじめに遭い、高校は2年で中退。 この頃から不安感や体のだるさなどを訴え、伊丹市内の精神病院に入院した。 1981年11月、航空自衛隊に入隊。 パイロット志望だったが、整備などにまわされたため除隊した。 この頃、六法全書など法律本を買い込んでいる。 1983年3月、父親の金で運送業を始めるが失敗。 不動産会社に就職。 この頃にも母親に激しい暴力をふるっていたが、なぜか母親と2人暮らしを始める。 1984年11月、不動産会社の業務中、管理する大阪市内のマンションで、集金を口実に女性宅に上がりこみ、暴行を加えたうえ強姦。 逮捕を逃れるため精神病を装い、同病院に入院。 「幻聴が聞こえる」などと訴え、精神分裂病と診断された。 だが大阪地検に嘱託された医師は、「性格異常であるが理非弁能力はある」と診断、起訴されている。 1986年7月31日、婦女暴行事件で大阪地裁は宅間に懲役3年の実刑判決を下す。 奈良少年刑務所に入所。 1989年8月、刑務所を出所。 1990年6月、医師と偽り、18歳年上の女性と結婚。 だが嘘がバレて3か月で離婚している。 その直後、今度は小学校時代の恩師の19歳年上の女性と結婚。 彼女の出身大は大阪教育大学だった。 1993年、伊丹市交通局に路線バスの運転手として就職。 無断欠勤などはなかったが、車庫内で同僚と殴り合いの喧嘩をしたり、バス内で運転席後ろに座っていた女性客に「香水が臭いから、うしろの席に行ってくれ」と言ったり、問題を起こした。 1994年9月21日、妻と離婚。 1995年11月27日、同じ職場の女性と養子縁組して名字が変わる。 この縁組は97年1月に解消、宅間姓に戻る。 宅間は慰謝料200万円を強要。 1997年3月、女性(当時39歳)と3度目となる結婚。 だが女性は12月に離婚を求め、神戸地裁姫路支部に離婚調停を申し入れる。 宅間はこの女性に対しては復縁に執着し、逆恨みするようになった。 1998年6月、離婚調停成立。 それでも宅間はこの元妻にストーカー行為を繰り返した。 さらに交際中の別の女性に暴行を加え、逮捕されている。 さらに元妻にも同様の事件を起こし逮捕。 10月18日、交際中だった女性と結婚。 4度目の結婚。 同年、技能員として伊丹市内の小学校に勤務。 99年3月には教諭4人に精神安定剤入りの茶を飲ませ、傷害容疑で逮捕された。 ところが簡易鑑定で「精神分裂病(統合失調症)の疑い」と診断されて西宮市内の精神病院へ措置入院となり(この病院には事件直前にも入院している)、結局不起訴となっている。 3月2日、兄は守の度重なる確執と暴力により心労が重なり頚動脈を切った。 またその直前には妻と離婚しており、子どもを一人残しての自殺だった。 さらに3月31日には宅間は4度目の離婚をしている。 9月7日、以前養子縁組していた女性宅に侵入し逮捕。 2000年10月14日、当時タクシー運転手をしていた宅間は、大阪市内のホテルでベルボーイと口論になり、暴行を加え逮捕される。 同年11月、池田市内の建設資材販売会社に、10tトラックの運転手として採用される。 自身も池田市内のワンルームマンションに引っ越した。 だが信号待ちをしていた時に、並んでいた車の女性に「目が合った」と因縁をつけ、つばを吐きかけるなどの問題を起こし、2001年2月に辞めさせられた。 2001年5月下旬、みずから1日だけ精神病院に入院。 この幾多のトラブルを経て、宅間はその腹いせに、大量殺人を企図。 「日曜日に大阪市内の繁華街をダンプカーで突っ込む」ということも考えたが、「逃げ足に低い子どもを狙えば、多数を殺害できる」と考え、大阪教育大附属池田小を狙うことを計画した。 前日夜、男は電話番号案内で知った池田小の電話番号をカーナビにセットして、床についた。 そして8日朝、車を出した宅間は池田市内の刃物店で包丁を2本購入。 池田小に向かい、南側正門が締まっていたため、そのまま進み、自動車専用門が開いているのを確認して、車を降りた。 【裁判】 宅間は逮捕後に「詐病だった」という供述をしていたものの、多量の薬を服用していたことや、10代の頃から通院歴があるため、本当に責任能力はあるのかということが疑われた。 だが捜査、公判両段階で行われた2度の精神鑑定では、「人格障害」と診断され、責任能力があることが認められている。 9月14日に殺人、殺人未遂罪などで大阪地裁に起訴。 同年12月27日に初公判があり、検察側が起訴状を読みあげ始めたとき、 「おう、座っちゃあかんかぁ」 と宅間は言った。 裁判長が厳しい口調で立って聞くように言うと、睨み返した。 この初公判では起訴事実を認め、「命をもって償う」と言った宅間だったが、後に検察側から「なぜ『命をもって償う』と言ったのか」と問われると、「裁判の判決の新聞記事にそういう言葉がよく出てくるから言っただけ」と言った。 それ以外にも、彼の発言には次のようなものがある。 「交通事故で大勢の人が死んでいるのと自分の事件は変わりがない」 「道連れは多い方がいいと思った」 「勉強ができる子でも、いつ殺されるかわからないという不条理をわからせたかった」 「幼稚園ならもっと殺せた」 「(被害女児の義父に対して)こら、〇〇!お前、子どもと血ィつながっとらんやないか!おいこら、〇〇、なんとか言えや!」 2003年5月、検察側は宅間が矯正教育を受けた後にこのような凶悪事件を引き起こしたことについて、「本件被害の惨状と多くの家族の悲痛な思いを見るとき、いわゆる死刑廃止論が、いかに被害者や遺族の立場、心情を無視した空疎なものであるかということを実感せざるを得ない」と死刑を求刑。 この後に心神喪失、心神耗弱を主張した弁護団の最終弁論の後、宅間は「死ぬことにはまったくビビっていません」「いままでさんざん不愉快な思いをさせられてきました」「しようもない貧乏たれの人生やったら、今回のパターンの方が良かったのかもしれません」などと述べた。 8月28日、判決公判。 宅間は「死刑になるんやろ。 最後に言わしてくれ」と訴えたが、裁判長はそれを無視。 すると宅間は大声をあげた。 「3枚ほどや!すぐ終わる!最後に言わしてくれ!これまで、わし、おとなしくしてたやろ。 どうせ、死刑になるんやさかい」 裁判長は退廷命令を出し、拘置所の職員が宅間を連れ出した。 この後、裁判長はまず「主文、被告人を死刑に処する」と読み上げ、死刑を宣告。 そして「我が国犯罪史上例を見ない、空前の、そして願わくは絶後の、凶悪重大事犯である」「理不尽極まりない暴力によって、一瞬にうちに短すぎる人生を絶たれてしまったのである。 その無念さに思いをいたすとき、深い哀惜も念を禁じえない」と述べた。 9月10日、弁護団は控訴期限が迫るなか大阪高裁に控訴。 だが26日に宅間がそれを取り下げ、死刑が確定した。 【死刑】 その年の12月、宅間は和歌山出身の女性と結婚(5度目の結婚)。 女性は死刑廃止を訴えるアムネスティ・インターナショナルの活動に参加しており(会員ではない)、それまでに支援者の1人として弁護士を通して宅間に手紙を送っていた。 この結婚は、宅間と接見や文通の権利を得るという目的もあったが、宅間に対して遺族へ謝罪するよう説得する意図もあったという。 もちろんこの結婚について、女性は家族から猛反対を受けており、家族に迷惑がかからないようにと自分の姓を変更し、宅間もこの姓を名乗った。 2004年9月14日朝、大阪拘置所で死刑執行。 享年40。 刑確定から1年足らずの異例のスピードでの執行だった。 冤罪性がなく、被害児童の遺族などの感情を考慮しての執行だったとされる。 執行の前、ジュースと煙草を飲んだ。 取り乱すことはなかったという。 その日の午前9時40分、大阪市内の妻の自宅を訪ねた拘置所職員が、「今朝、きれいに逝きましたよ」と死刑が執行されたことを報告。 妻は最初その意味がわからなかったが、「なんでこんなに早いんですか」と大声で泣いた。 死刑囚の遺体は拘置所によって荼毘にふされ、家族には遺骨のみが渡されることがほとんどだが、遺族の希望により遺体の状態で家族に引き渡すことも可能である。 宅間の場合も、その希望によって、遺体のまま妻に引き渡されることになった。 妻が拘置所内で宅間の遺体と対面して泣いた後、1人の若い刑務官が、妻のところに走り寄って来て、宅間の遺言を小声で伝えた。 その一方で、最後の最後まで被害者遺族に対する謝罪の言葉はないままだった。 【トピックス 狙われる学校】 事件直後、大阪教育大、大阪大、府立こころの健康総合センター、大阪被害者相談室などの専門課で構成する「メンタルサポートチーム」が発足。 また校長も記者会見で、「大学と附属小の合同葬」を行う意向を明らかにした。 2002年のメンタルサポートチームの調査によると、全児童680人のうち、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が現れている児童は事件当時の2年生を中心に10数人から20人だった。 他にも保護者や教職員などでもこの病気に苦しむ人がいて、今なお苦しんでいる人もいる。 それ以外にも怖いので教室に入れない、原因不明の頭痛といったグレーゾーンの児童は約100人にものぼったという。 池田小では、教諭たちのあいだで不審者が校内に侵入して暴れたことを想定した訓練も開始された。 もちろん池田小だけでなく、全国の学校でもこうした動きは広がっていき、「地域に開かれた学校」というのは、また遠いものとなった。

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池田小事件 被害者

大阪教育大付属池田小学校(大阪府池田市)で8人が亡くなった児童殺傷事件は、8日で発生から16年を迎えた。 被害者やかけがえのない人を失った遺族は、周りに支えられ、助けが必要な人に手を差し伸べながら、思いを伝えていく。 「あのときのお母さんだったのね」 2年生だった塚本花菜(かな)さん(当時7)を亡くした母の有紀さん(50)は、昨年春から、老人ホームの介護福祉士として働いている。 ある日、終末期の女性が意識もうろうとしながら「お母さん、しんどい、苦しい」とつぶやくのを聞き、胸が苦しくなった。 「花菜ちゃんも亡くなる寸前まで、私のことを呼んでくれていたのかな」 16年前のあの日、市立池田病院に駆けつけた有紀さんは、ストレッチャーの上に横たわって亡くなっていた花菜さんと対面した。 その時の花菜さんと、目の前の女性が重なって見えた。 それ以降、寝たきりの入居者の姿や、フロアを歩く看護師、白い布団を見ては事件を思い出し、仕事が手に着かなくなった。 「ちょっとだめかもしれない」。 昨年7月、上司の女性マネジャーとの面談で、事件について初めて打ち明けた。 「あのときのお母さんだったのね」。 池田病院で27年間、看護師をしていたマネジャーもあの日、病院でストレッチャーに乗った女の子の姿を見ていた。 マネジャーは「つらい所にいる必要はありません」と言い、介護度の軽い入居者の健常棟の介護支援担当に変えてくれた。 マネジャーは「横たわったままの人を見るのはつらかったと思う。 よくここまで頑張って来られた」と気遣う。 有紀さんは職場の同僚にも事件について話した。 「しんどいときは無理しないで」と言ってくれた。 自分から隔てていた壁がなくなった気がした。 「花菜ちゃんはいとおしい。 その子の話ができないのはすごく悲しかった。 これからは話せます」 その後、施設が力を入れるレクリエーションの担当も任された。 事件後に生まれて中学2年になった長男(14)が勉強する傍らで、生きる喜びや楽しみにつなげていけるレクリエーションを考えることが楽しい。 今年の6月8日はレクリエーションの担当者会議が入った。 「この巡り合わせも、『いまは仕事を大事に』ということかも」。 夕方、学校が終わった長男と一緒に付属池田小を訪れようと思っている。

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