女神 の 見え ざる 手 サン ローラン。 「女神の見えざる手」 ジョン・マッデン監督 オフィシャルインタビュー

ボイジャー マックス・リヒター・ベスト [SHM

女神 の 見え ざる 手 サン ローラン

— 2019年 7月月18日午後9時45分PDT 【原題】Miss Sloane 【劇場公開日】2017年10月20日 【製作年】2016年 【製作国】アメリカ 【配給】キノフィルムズ 【監督】ジョン・マッデン 【キャスト】ジェシカ・チャステイン,マーク・ストロング,ググ・バサ=ロー,アリソン・ピル,他 あらすじ 大手ロビー会社の花形ロビイストとして活躍してきたエリザベス・スローンは、銃の所持を支持する仕事を断り、銃規制派の小さな会社に移籍する。 卓越したアイデアと大胆な決断力で難局を乗り越え、勝利を目前にした矢先、彼女の赤裸々なプライベートが露呈してしまう。 さらに、予想外の事件によって事態はますます悪化していく。 引用元:映画. com メモは英語で何と書いてあったか Sponsored Link 聴聞会でスローンが迫真のスピーチを行い、その場にいた人々の心が動き始めた時、ジェーンは上司にメモを渡し辞職を申し出ます。 どういう意味なのでしょうか。 メモの内容・意味 字幕では 「勝つ能力以外に信じるものは…」 と書かれています。 そのメモは、シュミットがスローンを引き抜こうと近づいた時に渡したものです。 シュミットは近づく際にポスト紙の記者だと思われたため、スローンにコメントを求めました。 その時のスローンの言葉がA conviction…だったのです。 「信念あるロビイストは勝つ能力だけを信じる」 スローンを一言で表した言葉であり、本作で徹頭徹尾描かれたことですね。 裏には 「報酬額ゼロ」 と書かれていますがこの時メモの内容はカメラには写りません。 それを見たスローンは 「称賛か侮辱かわからないけど私について誤解してる」と言います。 それに対しシュミットは 「私の見立ては正しい。 興味があるはずだ」 つまり、 シュミットはスローンが自分で信念で突き進むロビイストだから、無報酬でもこの案件を引き受けるはずだと見込んだのですね。 無報酬としたのには 「すべて終われば巨大企業が君と契約したがる」 という読みもありました。 実際にはスローンは刑務所に入ってしまったので、映画で描かれたことがすべてだとすれば報酬を受け取ることはありませんでした。 スローンは 自分が刑務所に入ることを覚悟して行動していたので、無報酬で自分の信念を貫いたことになります。 悪事をはたらき追い込まれた議員たちの裏で、スローンが正義を通したことがよくわかるシーンですね。 最後まで読んでいただき、ありがとうございました! Sponsored Link.

次の

ジェシカ・チャステイン

女神 の 見え ざる 手 サン ローラン

確かやにも出てきますが、ではここで屈服。 は食って掛かりますが、まともなは吊し上げを喰らう。 拳銃で脅された過去を持つ仲間まで、平気でTV 晒し場 ショーに引っ張り出す。 から何年も経ちますけど、TV視聴者の荒み具合は極限に達しているのかも。 ぜひのラストで涙するジェシカをご確認ください。 も一緒に出てくるから、本作の彼女がどれだけ異常かハッキリする。 倫理や正義などが崩壊してしまった21世紀、強い女とはマッチョじゃなくて実に恐ろしい。 イザベル・ユペールがを演じるわけです。 悲しいかなそれが現実で、追い詰められた弱い男どもはに走るわけか。 でもロビイストは描かれていて、数のゲームはずっと前から続いている。 悪いけど彼らは税金を集めているだけで、稼いでいるわけではないし、にあったけど、よく言って寄生虫。 ジョン・リスゴーを筆頭にに負かされる、ダメじじいをみなさん力演でしたな。 を生々しく描くと、このように実体化する。 また連載されていた時期 2011年~2014年 の日本をレポートしているようなエピソードに、うんざりしつつも事実として受け止め、あながち自分の認識とかけ離れてはいないなと、ほんの少しだけ安堵する。 テロリストグループ=キニシスギオの攻撃対象は大手既成メディアからアイドルグループに群がる連中、自転車から降りないマナー違反まで大小を問わない。 まともな人たちが知らん顔しているうちに、デカい面して大声で、主流だフツーだと唱えながら闊歩している。 こんな連中は鉄拳制裁されて当然だろ、この主張に抗うのはとても難しい。 「ま、話し合ったらどうですか」などと返せば消される。

次の

「女神の見えざる手」 ジョン・マッデン監督 オフィシャルインタビュー

女神 の 見え ざる 手 サン ローラン

埼玉近代美術館で6月2日から開かれている『New Photographic Object 写真と映像の物質性』を観た。 写真のことはよくわからないが、大変よかった。 牧野貴(1978年東京都生まれ)、横田大輔(1988年埼玉県生まれ)、滝沢広(1983年埼玉県生まれ)、そしてNerhol。 グラフィックデザイナー・田中義久(1980年静岡県生まれ)と彫刻家・飯田竜太(1981年静岡県生まれ)のユニットである。 Nerholの作品に目を奪われた。 数百枚の写真を積層し、掘りこむ手法で制作された14の作品はとても美しい。 写真で作られたオブジェといっていいだろうか。 『Interview:Portrait Mr. Yoshida』はひねられたように加工された顔が水の底にあるように見える二枚組の作品。 『彩湖、サンマルコ広場』『Farmer』は映像をねじったようで、ゴッホの筆致を連想させるものがあり、絵画に近いと感じた。 迫鉄平(1988年大阪生まれ)のシングルチャンネル・ビデオ『2014年のドローイングブック』は女性の指がノートをめくる11分の作品。 ノートはスケッチや写真から成るが、赤いマニキュアの指は迷いながらスナップ写真やカットなどを加えていく。 目を離すことができなくなった。 『#18』と『氷』はそれぞれ10分と11分の短い作品。 空港ロビーやファスフード店、山や居酒屋、走行する電車の窓から見える風景などの映像が流れ、時おり被写体の声が入る。 何の変哲もない風景にも見えるが、そこに役者が登場してセリフを言えば、短い映画になると思った。 見る者に語りたいと思わせる映像で、「語るのはわたしだ」と言いたくなった。 新しい写真の世界を広げる展覧会にちがいない。 9月6日まで。 詩人の高木護さんが今年1月に亡くなったことを知った。 1927年、熊本県生まれ。 数年前まで「雨期」に感想を送ってくださっていた。 細かい文字でていねいに書かれた指摘はいつも適格で、温かだった。 初めてお会いしたのは30年ほど前。 下北沢で「辻潤」の資料が展示されたときだったと思う。 辻潤(1884-1944)は翻訳家でダダイスト。 上野女学校の教師だった辻は生徒の伊藤野枝との恋愛問題で退職し、野枝を妻にする。 女性だけの雑誌「青鞜」の主力として活躍するようになった野枝は社会問題に興味を持ち、辻の許を去りアナーキスト大杉栄に走った。 1923年、大杉と野枝は関東大震災のときに憲兵大尉の甘粕正彦によって虐殺される。 「青鞜」(1911-1916)の創刊者は平塚らいてう(1886-1971)である。 知人が「辻潤を偲ぶ会」に関わっていたので、展示を見たあと居酒屋に行った。 そこにワサビの一枝を手にした高木さんがいらした。 ワサビの葉をちぎって口に入れながら飲んでいる姿は自然で、とても素朴な方だった。 平塚らいてうのお孫さん姉弟さんも同席されていた。 高木さんの詩集『ガシガシガシ』(2004年・ダニエル社)を読みかえした。 七十年も見つめてきたものが/大空でもなく/この大地の果てでもなく/虚しさだったということに気づいたので/ わたしはきょうも目をつぶっている (「眼鏡」部分) 高木さんは詩人そのひとのような、つねに読者を裏切らない詩を書きつづけられた。 心よりご冥福をお祈りいたします。 アルベール・カミュの『転落』(大久保敏彦訳・新潮文庫)を読んだ。 1956年に刊行された中編小説である。 弁護士のクラマンスがパリからアムステルダムにやってきて、バーで饒舌に語るスタイル。 語る相手は登場しないが、同業者という設定になっている。 今は落ちぶれたクラマンスのモノローグがだらだらと続き、何度も途中でやめようとした。 しかしカミュ作なのだから何かあるに違いないと思った。 このときカミュはどのような状況に置かれていたのだろう。 1951年、カミュは評論『反抗的人間』を発表するが、気鋭の思想家ジャンソン、ジャン=ポール・サルトルとの間に論争が起こる。 革命を排し反抗を擁護するカミュの歴史観が左翼知識人サルトルの反感を買い、一方的に交友が断ちきられてしまった。 高見に位置し、道学者ぶっていると非難され、「裁かれた」と感じたカミュの抗議がこめられた小説なのである。 つまり語る相手である同業者はサルトルが想定されていたということ。 主人公の名「ジャン・バチスト・クラマンス」は荒野で叫ぶヨハネの名をもじったもの。 カミュはキリスト教を拒んだが、この作品では新旧聖書からの引用が多い。 といってもクラマンスによって否定的に語られる。 また、『マタイによる福音書』と『マルコによる福音書』にあるキリストが十字架にかけられたときの最後のことばが『ルカによる福音書』では省略されていると言う。 この小説では「なんぞ、われを見捨てたまいしか?」と書かれているが、聖書協会共同訳(2018年発行)の聖書を見たら、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。 」となっていた。 『マタイ』では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。 」、『マルコ』では「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。 」と表記されている部分である。 『ルカ』の著者は医者で、この福音書が異邦人によって読まれることを意図していたという。 カミュがキリスト教をどのように解釈していたか。 そこに絞って読むとおもしろいのではないかと思った。 詩人の財部鳥子さんが5月14日に逝去された。 1933年新潟県に生まれ、12歳まで中国(旧満州)で育った。 財部さんの詩は鮮やかでダイナミック、別の世界に連れさられるような心地よさがある。 詩集を積みあげて一冊ずつ読んでいる。 暮らしの断片を書いてもベタになっていない。 巧みな喩が遠いものを引きよせる。 多くの詩集があるが、一冊を挙げるなら現代詩花椿賞に輝いた『中庭幻灯片』(1992年・思潮社)だろう。 異国の風景のなかに記憶の物語を呼びこみ、読む者を幻想の世界に誘う。 どこからか破れはじめた時間のために私は呼ばれて距離をはかっている。 回廊の欄干が落下しようと待ちかまえているとき、中庭で黒煉瓦の敷き石をはがしている。 敷き石のしたには豚の血がしまわれ、中庭の空気は腹腔のように臭っている。 また、作品には引き揚げ時の記憶と兄妹の死が錘りを下ろしている。 病死した3歳の妹と飛行機事故で亡くなった36歳の弟。 けれどもそれらは抽象化され、豊かな詩として実った。 詩人に対してつねにフェアであり、まっすぐだったと思う。 心よりご冥福をお祈りいたします。 カミュの『転落・追放と王国』 大久保敏彦&窪田啓作訳・新潮文庫)の『追放と王国』には6つの短編が収められているが、なかでも「客」がすばらしい。 緊張感のある文章、謎めいたラスト。 何度も読んだが、読みとくことができない。 雪に閉ざされた北アフリカの高原に建つ小学校が舞台。 そこに住む教師ダリュのもとに老憲兵がアラビア人の殺人犯を連れてくる。 憲兵はアラビア人を隣町にある役所へ引きわたせと言う。 ダリュは断るが、憲兵は男を残して去る。 アラビア人はフランス語がまったく話せない設定であるのに、二人の間には会話が成立している。 どういうことだろう。 ダリュは料理を作ってアラビア人とともに食べ、寝床を用意してやる。 義のひとである。 翌朝、食料と金を男に与え、二つの道のどちらかを選ぶように言う。 ひとつは役所(監獄)に通じる道。 もうひとつは草原に通じていて遊牧民に助けられる可能性がある道。 アラビア人が役所への道を進んでいくのを見て、教室に戻ったダリュは黒板に書かれた文字に驚く。 「お前はおれの兄弟を引き渡した。 必ず報いがあるぞ。 」 誰が書いたかは明らかにされない。 もちろんアラビア人ではない。 フランスとアラブの歴史を知らなければ理解できないことに気づいた。 この短編が書かれたのは1957年。 1954年にはフランスの植民地支配にたえかねたアルジェリアが独立をめざして武力闘争をはじめ、62年に終結した。 当時北アフリカ(アルジェリア)の小学校にはアラブの子どもたちが通っていて、フランス人教師による同化教育がなされていた。 つまりダリュはアラブ語を話すことができ、国民性なども熟知していた。 アラビア人は食事と寝場所を与えてくれたダリュを仲間とみなし、「われわれといっしょに来てくれ」と頼むが、断固として断る。 「これほど愛していたこの広い国に、彼はひとりぼっちでいた。 」 ダリュの孤独を描くことで、カミュは二つの国が共存することの困難を表現したのだろう。 カミュの短編集『転落・追放と王国』(大久保敏彦・窪田啓作訳、新潮文庫)のなかの一編「不貞」を読んでいて、ベルナルド・ベルトリッチ監督の『シェルタリング・スカイ』(1990年)を思いだした。 「不貞」というタイトルはまったく内容に合っていないのだが、人妻の心情を描いた物語。 結婚して25年、ジャニーヌは夫に伴ってアルジェリアへ商用の旅をする。 夫に大切にされているが、自分には何かが欠けていると感じている。 旅先でさまざまな事物に触れ、サハラ砂漠の広がりや沈黙を守るアラビア人などに心奪われ、ホテルを抜けだして星空を眺めるうちに夜に向かって心をひらく。 夫を愛していないことに気づくのだ。 『シェルタリング・スカイ』(原作はポール・ボウルズ『極地の空』)は若いころに見て奇妙な映画だと思ったのだが、「不貞」を読んで、少しわかったことがある。 劇作家のキット(デブラ・ウィンガー)と作曲家のポート(ジョン・マルコビッチ)夫妻が第二次世界大戦後まもないニューヨークから北アフリカへ旅行にやってくる。 仕事にも人生にも行きづまった二人はサハラ砂漠で何かを見つけられると思っていたが、関係は険悪になるばかり。 夫がチフスにかかって死んだあと、キットは砂漠の隊商に身を投じる。 当時は男たちの身体をすりぬけていく奔放なキットの行動を理解することができなかった。 砂漠が舞台であり、主人公である映画なのだ。 それまで文明社会の富を享受し、夫に護られていたキットは身ひとつで砂漠を渡っていく体験をする。 夫との関わりだけがすべてだったジャニーヌは砂漠とその民の在り方に惹かれる。 砂漠に人間の原初的な本能を呼びさまされたといえるかもしれない。 ここでサン=テグジュペリの『星の王子さま』(内藤濯訳・岩波少年文庫)を思いだすこともできるだろうか。 「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ・・・」。 画家の矢野静明さんのアトリエで年に数回ひらかれている「現代美術茶話会」に参加している。 今年で5年目に入ったが、メンバーは現在、倉田比羽子さん、瀬尾育生さんとわたし。 そのなかで、「座間草稿集」を出すことになった。 1号(2017年10月)には築山登美夫さんと浅尾ゆう子さんが執筆していて、わたしは2号からの参加。 4月末に6冊目を発行した。 いつもは瀬尾さんが編集とキンコーズでの印刷をしてくださるのだが、今回は外出自粛のため、各自が15部ずつ印刷した。 3時間近くプリンターに張りついての作業。 裏面印刷も初めて。 手造り、手渡しの冊子で、インターネット上での言及や引用を禁じている。 60部限定。 掲載した草稿はもちろん完成形ではなく、加筆訂正して別の紙媒体に発表することになる。 4年に一冊というペースをまもりたいと思ったのは、以前どこかで4年が作品の賞味期限と書かれているのを見たからである。 ずいぶん昔のことで、今となっては誰がどこで書いていたのかまったく記憶にないのだが。 4年あれば作品もたまる。 若いときはそれをすべて入れた詩集を印刷所で作っていた。 今回は6年あいだが空いたので作品数は多いのだが、つまらない詩もあり、いくつかは捨てることにした。 詩集は手にしっくりおさまるサイズがよいと思っていて、厚いものにはしたくない。 最初の頃は初出一覧を載せていたけれど、かなり加筆訂正をしたものを収めることになるので、それはなしにした。 問題はタイトル。 一作品のタイトルを詩集のタイトルにはしないと決めている。 「ショランダーは金髪だった」「サラーム」「あめふらし」「何かひとつ新しいこと」「わたしにできること」「至上の愛」「中空前夜」「空の庭、時の径」「森の明るみ」。 これまで出した詩集のタイトルである。 昨日やっとよいものが浮かんだのだが、一夜明けて、ちょっとどうかと思っているところ。 詩集制作のプロセスのなかでいちばん幸福な時間かもしれない。 新しい詩集を出すことにした。 前詩集から6年経った。 4年に一度というのがベターだと思っていたけれど、一昨年に月刊誌の仕事が入ったため、時機を逸してしまった。 まず書いたものを全部プリントアウトして読んだ。 次に同工異曲のものをチェックして、そのなかの一つを選ぶ。 それから細かい部分を修正する。 家人に読んでもらい、アドバイスはすなおに受け止めて、訂正する。 そのまま押しとおすこともあるが。 原稿を何度も読みかえし、納得がいったところで、出版社に詩集制作のお願いをする。 承諾をもらったら、原稿を渡す。 そこまで進んだ。 まだタイトルが決まっていない。 紙にキーワードと思われることばを書きちらし、よいものが浮かぶのを待っている。 スペインの作家バリェ=インクラン(1866-1936)の『独裁者ティラノ・バンデラス 灼熱の地の小説』(大楠栄三訳・幻戯書房)を読みはじめた。 ガルシア=マルケスやフェンテスらに継承される「独裁者小説」の先駆的作品とのこと。 そういうジャンルがあるのを初めて知った。 「ティラノ」は「凶暴」という意味で、ほんとうの名はサントス。 「バンデラス」は「旗」の意味。 60代のインディオという設定だが、文中では「ティラノ」「サントス」「黄色いミイラ」「閣下」「将軍」などと書かれていて、混乱してしまう。 最初に7ページにわたって登場人物の名が記され、最後にはボリュームのある註と訳者解題、作家の詳細な年譜。 60ページほど読んだところだが、まだ物語の世界にうまく入ることができないでいる。 放りだすのは悔しいので、何とか最後まで読みすすめたい。

次の